2023.07.05
稽古すればするほど弱くなってるんじゃないのか?
長年続けていると、そんなこと感じる人も少なくないのではないだろうか。
道場に一生懸命に通っているのに、自分は上手にそして強くなっているのかどうなっているのか。
明らかに上手くならないのは、自分に才能がないからだとか、ケガのせいにしたりとか年のせいにしたりとか。
ただなんとなく原因を漠然と何かのせいだと決め付け、最悪は先生が教えるのが下手くそなんだとかいう他力にしてしまったりとかと。
様々な原因はあると思う。
私は空手に限っては才能はあまり関係ないとさえ思っている。
そう誰でも正しい動作さえ学べば、黒帯を取得し今の自分よりは確実に強くなれると信じている。
なぜなら空手とは弱気者が強くなるための武道だと経験上私も感じているからだ。
当然、本人の才能によって大小の努力は必然だが。
確実に他のスポーツよりは向上できるようプログラム(稽古法)が確立されているのではないだろうか。
そこを理解するには長年の経験と本人の意識がなければ理解は難しいだろうが。
そこがスポーツと武道の違いだと思う。
空手や武道は稽古体系がみな学校の授業のようにみんなで同じことをやるというのが通常だ。
指導員や先生が前に立ち、カリキュラムにそって進めていく。
そして見本を見せ、同じ技を反復させる。
出来ない者には、ポイントを伝える。
また自信がない者や覇気のないものには叱咤激励をする。
そうやって先生がみなを鼓舞し、そして道場生が呼応する。
学校も道場も基本、集団で学ぶということは似たようなものではないだろうか。
これはこれで教える側も教わる側も初期段階では問題はないが。
ではなぜそのような不安や確信が持てなくなってしまうんだろうか。
それはある一定のレベルに達した者や、数年の修行と中途半端な時期の色帯などに見受けられる。
同じ動作の繰り返しや、その動作の意味が分からない、もしくは考えない、なれ合いや自分はもう出来ている、分かっているという慢心や勘違いなどが問題だと思う。
しかしここで疑問をもった者はチャンスだ!
集団稽古の弊害。
そうここに原因があると私は感じている。
何も道場でみんなと稽古するのが悪いと言っているわけではない。
みんなと仲良くノリでやっているだけで、ハアハア、フウフウと息を荒くしているだけでは成長など望めない。
そんなのはせいぜい初心者(色帯)ぐらいまでだ。
ここはあえて私は断言してしまう。
当たり前なのだ、弱点や苦手なところは体大きさや、性別、年齢とあらゆるものがみな違うからだ。
基本とは形とは初期段階の話であって、いつまでも無心に何も考えて行えば、いつまでたっても本質には届かない。
そこからどう稽古を意識して個人的に深堀りしていくかが大事なんではないか。
これはどのスポーツやどの運動でもそうではないだろうか。
集団で行う野球やサッカーのようなスポーツもそうだ。
みんなでやる利点も大いにある。
いやそれこそみんな(チーム)でやらねば、ならないこともたくさんあり重要だ。
しかし個々の弱点の強化などは自分で稽古、練習していくしかないのだ。
そしてそこからまた自分の体を見つめ直す作業がなければならない。
せっかく一人で出来るような稽古体系が空手にはあるのだ。
使わない手はない。
その基本の中に体の使い方が隠されているのではないだろうか。
レベルが上がったきた者ほど一人稽古を推奨する。
私は若い頃、稽古(集団)に行けなかったからこそ、今個人と集団の弊害をさらに感じてしまう。
空手という武道は良くも悪くも稽古体系が良く出来ていると長年やっていると分かってくる。
基本的に人間が大事にしなければならない体の動きや使い方が隠されているのではないだろうか。
だから我々指導者は武道空手をやっているのだから、より深く考え先人たちが残したこの現在意味が分からん基本や型を研究していかなければならないのではと考える。
それには私のようなバカ一人では到底無理な話だ。
極めるなど私の才覚では厳しいが幸い素晴らしい先生方がたくさん周りにはいらっしゃる。
あと何年体がもつか分からんが残りの人生武道空手を追及したい。
そして正しいものを後輩たちに伝えていければ本望だ。
誤解しないでほしいが、集団でやることを否定しているわけではない。
私だって、仲間とやる稽古は楽しいし苦しい稽古はみなに救われた。
ただそれだけでは、いづれ必ず息詰まるのは確かだということだ。
集団と個人。
うまくバランスを取って稽古し、そして自分を信じ可能性を広げていただきたい。