2023.10.18
私は空手の指導はもう20年以上のキャリアになるか。
今だ葛藤の日々だ。
どうしても私の指導は動くことより口が多くなってしまう。
特に子供はこのような指導は合わないのもあることだろう。
しかし武術・武道はに至っては原理・原則が必要だ。
ただ意味も分からず闇雲に動いていても、進歩はないのではと考える。
カンの良い者は10あるうちの2・3でも理解してしまう。
が、無理な者は10以上言っても難しい。
ここにセンスという差が出てしまう。
だからといってダメなわけではない。
いかにして自分なりにその穴を埋めるかである。
師にヒントをもらうばかりではなく自分で考えるのも大事だ。
自分の体と正直に向き合い、練り込み体に感覚を染み込ませるのが稽古なのではないか。
そう頭と心と体を使う。
試合に出ている選手は勝ち負けに固執する。
そこは私も大事だと思う。
しかし他のスポーツのように勝利することだけに価値を見出すのは武道ではないと考える。
スポーツは試合が実践だが、空手や武道は違う。
あくまで試合は形式的にすぎない。
護身的要素や精神性も重視ししているからだ。
しかし空手のように実践を想定されて作りあげられた稽古体系もやはり試合なくしては語れない。
稽古や想定だけでは、本当に使えるのか分からないからだ。
さすがに外のケンカで試すわけにはいかないし、社会的に大きなリスクを背負う。
まあ試合だと使える空手の技など、たかが知れているが・・・・・・
大山総裁はそのためにフルコンタクトという試合形式にこだわったのだ。
しかし勝ち負けや試合ばかりに固執してしまうと、武道としての本質を見失ってしまうのではないかと思う。
今や私も試合を離れて10年以上たつ。
組手のスタイルもおのずと変わっていく。
やはり武道の本質は対人稽古なくしては上達できない。
感覚を養うには人と触れ合う対人稽古をなくしては、ただの想定だけで終わってしまう。
まあ私はこんなことを語っているが、まだまだ空手の本質など分からないことだらけだ。
だから今だ稽古を続けている。
ただガムシャラにやるばかりが稽古ではない。
それではただのフィジカルだけの向上でしかない。
私はなぜ武道を選んだのだ。
別に流行りの総合格闘技のほうがいいのではないのか。
武道(空手)の稽古体系には日本人が古来から使えていた体の動かし方が残っているということが感じる。
どうせ苦しいことをやるなら、なおさら身にならなくては勿体ない。
そこに武道をやる魅力があるのではなかろうか。
武道とは、日本で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、人間形成の道とされています。
武道には、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道などが含まれます。
武道の原理・原則とは、武道の修業における過程や目標を示したもので、流派や種目によって異なる。
武道は単なる戦闘技術ではなく、人間性や社会性を向上させるための教育でもある。
空手の本質を頭で理解し、そして正しく体の使い方を表現できれば健康的にも良いと思う。
だから、私の稽古では語りは欠かせないのだ。
ただのおしゃべりなんでしょうけどね(笑)・・・・・・・・・・すみません・・・・・・・