2021.06.27

コロナ禍の中、去年はことごとく桝田道場の行事は中止せざるおえなかった。

そんなことで1年ぶりに昇級審査会が行われた。

みんな待ちにまったことだろう。

コロナ対策も徹底された。

検温 消毒 体調のアンケート 気合いを出さない 審査員の縮小 対人の審査は距離を取る 見学はさせないなど基本的に出来る範囲の対策が施された。

審査の内容も対人の審査には特に慎重的だった。

今まで審査内容のことを考えると受審者も我々審査員も物足りない部分はあっただろう。

しかし去年、行事ごとが一切出来なかったことを考えると、今年の第一歩を踏み出せたのは、喜ばしいことだ。

 私にとっても懐かしき先輩や師匠に会えたことが、何気に喜ばしいことだった。

なにせ一年ぶりだ。

なんか緊張しながら先輩方と懐かしんだ。(向こうはどう思っているかわかりませんが・・・・)

今日の審査会の総責任者になっている私の師匠的存在の蛭川さんも来ていた。

極真の基礎はこの方から学んだといっても過言ではない。

審査の出番が終わったため、蛭川さんと雑談をした。

コロナ 空手 極真 組織 そしてこれからのこと。

こんなに話したのは、数年前の忘年会以来だ。

ていうか、蛭川さんとこんなに話したのは初めてだ。

なぜか私は話が弾んだ。

今思っていた思いを蛭川さんにぶつけた。

 

蛭川さんには極真空手を始めた時、3年ぐらいは指導を受けていた。

極真の厳しさを教えてくれたのも、この方だ。

当時30歳半ばか。

蛭川さんはもう現役を離れていたが、それでも衰えを知らず私たちには脅威でしかなかった。(ていうか30代て、今思うと若いし、全盛期だよね~)

自分たちにあるのは若さと負けん気のみ。

とにかく当初は怖くて怖くて仕方なかった。

当時の水曜日は初心者専門の日として設けられてた。

飲食業をしていたので週一ぐらいしか休めなかった入門したての私には貴重な一日だった。

空手の動きは他のスポーツと比べると、動きがなんか違う。

何のためにこんなことするのか、さっぱり意味がわからなかった。

出来るようになって帯が上がるとまたさらに難易度が上がる。

厳しいし痛いし怖いしで、何度道場の前まで来て帰ってしまったか分からない。

蛭川さんに下突きで肋骨を折られ、上段廻し蹴りで失神させられたり、下段回し蹴りで倒されたりした道場生は数知れない。

当時はこれが当たり前だった。ていうこれが極真だと思ってた。

私は顔にモロに蹴りを喰らったこともあり、倒れこんで悶絶した思い出がある。

私と後輩たちは、蛭川さんにいつも恐怖でおののいていた。

組手をやる時みんなで並んでやるが、どう並べば蛭川さんに当たらないでいられるかと、いつも考えていたものだ。

ある日、蛭川さんと運悪く組手でぶつかってしまった。

ライオンはウサギをしとめるのにも全力を尽くすという。

まさにウサギの私をロックオンした。

その時左の上段蹴りがきたので、なんとかさばいた。

その時、左手の中指に激痛が走った!

組手中なので、少し間合いを外して中指を見てみると、曲がらない方向に第一関節が曲がっていた。

焦った私は強引に指を戻し、蛭川さんの攻撃に集中した。

なんとかそれぐらいで済んで安堵したの思い出す。

そう蛭川劇場はまだある。

 

蛭川劇場その1。

入門してての時、蛭川さんと長谷川さんとで組手の模範演武を私たちに見せてくれた。

蛭川さんが優勢に運んでいた時に得意の上段廻し蹴りがさく裂した。

長谷川さんは倒れこんだその時に袖を掴み、なんと背負い投げをしてきた。

しかし蛭川さんは投げられた際にクルっと前転をして構え直した。

「お~っ」それを見た私は心が高揚したのを今でも忘れない。

私は極真空手の大会組手のルールでは掴んでの投げなどはいけない。

しかし道場では関係ないんだ、さすがケンカ空手と思ってしまった。

同時に俺こんなところでやっていけるのかな~と思ってしまった。

 

蛭川劇場その2。

稽古が終わると、自主トレにはいるがここから最大の恐怖の始まりだ。

自主トレをしたいのだが、当時の水戸本部では恒例蛭川タイムが始まる。

蛭川さんの物色が始まるのだ。

そー恐怖の蛭川劇場の始まり始まりだ。

椅子に座りながら、ど・れ・に・し・よ・う・か・な・とまるで獲物を探すように。

当時の蛭川さんはライオンと例えるなら、我々は子羊みたいなものだ。

俺は目を合わさないように、ライオン蛭川の物色が終わるまで道場の隅で怯えていた。

分かっている後輩達も生贄が決まるまでは気が気じゃない。

おまえだ!捕まった子羊は処刑台に乗せられたようなものだ。

ライオン蛭川にもて弄ばれるように突き蹴りを食らっていた。

同情もしたが、安堵感のほうが強かった。

まさに我々は蛭川さんの組手の実験台だったのだ!

そう水戸道場で蛭川さんは人体実験を繰り返していたのだ(笑)

まだまだあるが、こんなとこでは言えません(笑)

とにかく私は蛭川さんには褒められたことがなかった。

劣等生だったのだろう。

茶帯の時「うまくなってきたな」と一言だけ言われた。

26年間空手をやってきて俺を褒めてくれたのはそれだけだ。

でも、すごい嬉しかったのを今でも忘れない。

師匠の蛭川さん(左)との一枚。

一緒の写真これしかなかった。

世界大会の代表を決める大会だった。

こんな私をこの時ぐらいは褒めてくれていたのだろうか・・・・・・

今でもこの人がいたからこそ、ここまでこれたと思っている。

いつか師匠には認められたい。